ひとりごとのつまったかみぶくろ ボーイスカウト実践記(1980.4.28) ボーイスカウト活動プログラムの紹介(1998.6.20) ボーイスカウト運動についての諸考察(2014.10.5)
ボーイスカウト研究

 私は、小学6年生の時、ボーイスカウトに入隊し、その後、成人してからも、隊のリーダーとしてこの活動に係わってきました。自分に子どもが生まれてからは、隊の活動からは離れておりますが、隊のリーダーをしていた当時、この運動について結構文章を書いておりまして、その中からいくつかをワープロで打ち直してここに掲載することにします。
 


 はじめに
 ボーイスカウト運動の目的
 ボーイスカウトの「奉仕」の精神をめぐって
 「進歩制」( badge system )について

 「財団法人ボーイスカウト日本連盟教育規定」(抄)

はじめに

 たったひとりの人のアイデアによる運動が、短い期間の内に全世界に広まり、かつ七十余年経った今日でもそれを衰退させない…そのようなことが、この地球上の歴史の中に、これのほかにいくつ見つけることができるでしょうか。この運動が、そんな特異なものの一つであるからこそ、私たちは、それの本当の姿を絶えず追求し、かつ、これが、私たちにとって、本当に値打ちがあるものなのかどうか、子孫に継承する価値のあるものなのかどうかを見極める必要があると思います。そのような態度と努力の中でのみ、私たちは、よりB−P(=ベーデン・パウエル、1857〜1941:ボーイスカウト運動の創始者)に近づき、かつB−Pを越える力を産み出していくことができると信じています。

  1979.12.14




ボーイスカウト運動の目的

 この運動を創始したベーデン・パウエル(以下B−Pと略します)は、彼の著書「スカウティング・フォア・ボーイズ」の序文(1940年)で次のように述べています。「(スカウティングは、)学校の訓育への補足になることができ、学校の正科のカリキュラムに避けられない割れ目を満たし得るもの(である)」(1)と。さらに、「その、割れ目をうめる指導の主題は――人格、健康そして個人における手技の器用さ、そして奉仕にその能力を用いることによる公民性の発達をとおしての個人的能力の(養成である)」(2)と。

 では、B−Pは、なぜ、このような運動の必要性を感じたのでしょうか。

 B−Pは、次のように述べています。「今日、国民の間の最悪の過誤は、狭い視野、セクショナルな見解にある。」(3)「(現在の学校の教育方法〔B−Pは、これを『普通の教育方法』と記している〕には、)少年の心に自分だけの利益を奨励したり、他人に無関心にさせたり、または他人の利益を敵視さえさせるような危険(がある。)(生徒は、)クラスの首席になり、賞品や奨学金を獲得しようとして級友と競争するよう奨励される。人生における最大のものに向かって野心を抱くのではあるが、これは国家に対するデューティや、他人に対する助力や思いやりを充分に教えてバランスをとることを忘れた教育方法である。」(4)そして、「その結果は、知育偏重、階級嫉視、産業争議、宗派争い、スポーツ耽溺、政争及び国際紛争(としてあらわれる。)」(5)と。

 B−Pは、次のように主張しています。「(人々は、)広くものを見ること、及び善意と協力とを積極的に用いることを教え(られなくてはならない。)」(6)と。さらにB−Pが、「スカウティングが、デューティ感と他人に対する奉仕観念による一連の訓練をもって、これを救うために登場した」(7)と述べている点、注目する必要があるでしょう。

 私たちが生きる現代の社会に目を向けてみましょう。私たちは、B−Pが懸念し、さらにその問題解決のために必要と感じたことと同じことを感じることができます。ボーイスカウト運動が開始されて以来70年余り経った今でも、私たちの周りの事情は、この点を見る限り、ほとんど変化していないことがわかります。

 ここに、現代においても、ボーイスカウト運動が必要であり、かつ有効であることの根拠があると思います。



 この文章の後に、「財団法人ボーイスカウト日本連盟教育規定」の一部を載せておきました。次の文章を読まれる前に、その連盟教育規定に目を通しておいてくださることを希望します。



 それを読まれて気付かれたと思いますが、ボーイスカウト教育は、少年たちの自発活動がその基盤になっています。

 ところで、この「自発活動」という理念をめぐって、注意しなくてはならないことがあります。

 連盟教育規定の中にこのような条文があることは、私たちがボーイスカウト運動を行なう上で、「自発活動」の実施の具体的な方法が示されているという意味で、大変有意義に思っています。

 しかし、私は、このボーイスカウト運動は、健全な「自発活動」ができる人格を育てる場であって、少年たちに不用意な「自発活動」を行なわせる場ではないということを強調したいと思います。連盟教育規定の各条文は、これをふまえた形で運用すべきであると思います。

 昭和48年に、T市内のある中学校で、次のような事件がありました。「あるクラスで事件が起こった。その犯人の生徒は見つかった。先生は、その犯人の生徒をどのように戒めるかをクラス全員で『自発的に』討議させた。暴力的懲罰がよいという決に至り、そしてそれが実行された。先生は、生徒たちの『自発的決議を尊重するために』それを禁止しなかった。」と。新聞ざたになったのは当然です。

 この事例は、組織の自発的・自主的運営はその組織の成員のすべてが健全な人格の持ち主であることが前提である、ということを示していると思います。その先生は、これを認識していなかったことによる過ちを犯したのです。

 もう一度言いましょう。ボーイスカウト運動は、少年たちの健全な自発性を育てる教育運動であって、決して少年たちの「自発性」にまかせる運動ではありません。



 ここで少し、「自発性」と「自主性」という、それぞれの態度の関係について述べておくことにしましょう。

 「自発性」という態度は、個人のレベルで、その個人の心の奥底から、新しい精神活動と実践とを創造する態度です。それに対して、「自主性」という態度は、個人がある組織に加わったレベルで、彼がどのような創造的で自律的で協調的な能力を発揮するか、ということを示す態度です。

 ボーイスカウト運動が、「自発性」という態度の育成を期している点、進歩的です。「自発性」を持った人が組織に加われば、組織を形成していく上での問題は、諸個人の精神のレベルまで掘り下げて処理できるので、真の「自主性」を発揮することができます。個々人の「自発性」に支えられた組織に生ずる構成員の「自主性」は本物です。

 しかし、「自主性」が強調される現代、多くの団体は、組織の構成員に「自主性」を期待しています。しかし多くの場合、その「自主性」は、「押しつけ自主性」ですので、その組織は不安定です。構成員同士で、「おまえ、やる気があるのか」という議論が出てくることになります。構成員の「自発性」に支えられていない「自主性」が、その組織を内部から崩す契機に転化してしまうことになりかねません。



 第何回の日本ジャンボリーの時であったのかは忘れましたが、ある年の日本ジャンボリー開催中、その地元の新聞に、「電気も水道もある大自然、云々」という見出しのジャンボリーを報道する記事があったそうです。

 私は、直接その新聞の記事を読んでいませんが、きっと次のような内容ではなかったかと推測できます。「ボーイスカウトは、少年を大自然の中で厳しい生活をさせることに意義があるはずなのに、文明の利器である電気や水道を設けるとは何事ぞ…」

 この記事の内容について、あなたはどう思われるでしょうか。

 もし、この記事を書いた人と出会うことができたら、私は、きっとこう言うでしょう。

 「あなたはボーイスカウト運動を間違えて認識している。見なさい、このテントサイトを。門、囲い、食堂、炊事設備、等…。これらは皆、少年たちが自分たちで工夫して作ったものです。皆で協力して作りあげたものです。彼らの日常生活の中で、このようなことが行なえる機会、環境がありますか。私たちは、少年たちに、その機会を設けたのです。私たちは、少年たちに、「不便を忍べ」とか「野生的に生きよ」などと求めてはいません。私たちは、少年たちに、「創造的な生活」「チームワーク」を期待しているのです。」と。

 18世紀のフランスの思想家ルソーが書いた「エミール」の中に、次のような文章があります。示唆に富んだ文章と思います。

 「読者よ、ここにわたしたちの生徒の体の訓練と手の器用さだけを見てはならない。そういう子どもらしい好奇心にわたしたちがどういう指導をあたえているかも考えていただきたい。感覚を、創意に富む精神を、先見の明を考えていただきたい。かれのためにわたしたちがどんな頭脳をつくりあげようとしているかを考えていただきたい。かれが見るすべてのもの、かれが行なうすべてのことにおいて、かれはすべてを知ろうとするだろう、あらゆることの理由を知ろうとするだろう。道具から道具へ、かれはいつも最初の道具にさかもどろうとするだろう。仮定にすぎないことをなに一つみとめようとはしないだろう。自分がもたない予備知識を必要とすることを学ぶのを拒絶するだろう。バネをつくっているのを見れば、鋼鉄がどうやって鉱山から採掘されたかを知りたいと思うだろう。箱の部品を組み立てているのを見れば、どんなふうに樹木が切られたかを知りたいと思うだろう。自分で仕事をするときには、自分がつかう一つ一つの道具を見て、必ずこう考えるだろう。もしこの道具がなかったとしたら、これと同じ道具を作るには、あるいは、こういう道具をつかわないですませるには、どうしたらいいのか。(8)

 (1) B.Powell:" Scouting for Boys "(1952年版)より ボーイスカウト
   日本連盟(中村知)訳『スカウティング・フォア・ボーイズ』(1957
   年)、49ページ
 (2) ボーイスカウト日本連盟(中村知)訳 前掲書、49ページ(文修正参
   考:竹内真一著『青年運動の歴史と理論』(1976年)、195ページの同
   文訳)
 (3)〜(7) ボーイスカウト日本連盟(中村知)訳 前掲書、498〜499ページ
 (8) J.J.ルソー『エミール』、今野一雄訳(1962年)、岩波文庫、三
   分冊の内の上、334ページ

 《「ウッドバッジ実修所第1教程」のために記した文章(1979.2.26)、および「ボーイスカウト教育の理解のために、その2」(1979.9.16)、その他、から編纂》




ボーイスカウトの「奉仕」の精神をめぐって

 ボーイスカウト活動が一般の人々に報道・紹介される場合、スカウトが公共施設を清掃奉仕しているというような場面が取り上げられていることが多いようです。このような場面しか見る機会がない多くの人々の中には、この場面を誤った観点で解釈して、次のような非難を行なう人もいるようです。すなわち、「ボーイスカウトは、子どもに奉仕活動の経験をさせて、社会に役に立つことだけが正しいと思う思想を植え込み、体制(ブルジョアまたは国家権力)にとって、利用しやすい(安い賃金でもせっせと働いてくれる)人間に育てている」()「ボーイスカウトは、子どもを奉仕にかりたてるだけで、子どもの自主性を少しも認めていない」()と。

 確かに、B−Pは、その著書の中で、多くの「奉仕」("service"または"Service")という言葉を用いていますし、ボーイスカウト運動は、理想とする人間像として「奉仕のできる人間」をその一つに掲げていることも事実です。

 私たちは、普通、「奉仕」という言葉を聞くとき、いわゆる「社会奉仕」「勤労奉仕」「慈善」「ボランティア」「奉仕価格」「サービス」というような言葉からくるイメージを思い浮かべてしまいます。ですから、人々が、「奉仕」という言葉を多く用いているボーイスカウト活動を見るとき、そのような言葉からくるイメージに影響されて、誤った認識をしてしまうということがしばしば生じます。青少年運動について深く研究されている学者でさえ、そんなイメージからくる「奉仕」の語の誤解と、ボーイスカウト運動についての不十分な調査のために、ボーイスカウトを、たとえば「全体の利益に対する自我の従属、協同とよい仲間関係というチーム精神に含まれる自己否定と自己統制を訓練する団体」(M大学教授のT氏)(1)と規定しようとします。

 実際のところ、ボーイスカウト運動の中で、子どもたちの指導に当たっている人々の中にも、またこの運動を援助している人々の中にも、このように思い込んでいる人々はおられるようです。

 この運動を創始したB−Pは、はたして、そのような人格の育成を期したのでしょうか。私は、そうとは思っていません。

 それでは、B−Pがその信条の中に持っていた「奉仕」とは、いったい何であったのでしょうか。

 B−Pが「奉仕」(Service)という言葉に託して、本当に子どもたちの人格に育てたかった気質は、彼が述べた次の一節によく表れていると思います。

 " My belief is that we were put into this world of wonders and beauty with a special ability to appreciate them, in some cases to have the fun of taking a hand in developing them, and also in being able to help other people instead of overreaching them and, through it all, to enjoy life ― that is, TO BE HAPPY. "(2)

 (「私の信じるところでは、 …人間は、この驚異と美に満ちた世界に、それを正しく認識する・評価する・味わう(appreciate)ことができる(人間だけがもちうる)特別な能力を持って生まれてきたのです。場合においては、それはこの世界をよりよくすることに手を差し延べることが喜びになり、そして人々よりぬきんでるのではなくその人たちを援けることもできる能力なのです。そしてそれらをとおして人生を楽しむことができるのです。― これこそが幸福に至る途なのです。」:FUNAHASHI 訳)

 人間というものは、本当のことを知れば、そしてそこで自分のどのような行動が求められているのかということに気づけば、心の奥底から、ムラムラと、それを行なってみたいという気持ちになるものです。このような気持ちは、自分が知ったこと、理解したことは、真理である、という自信があればあるほど強くなるものです。押しつけられた知識や、曖昧な判断能力しかない人は、決してそのような気持ちが生ずることはないでしょう。

 つまり、自分が生きている世界(私たちが目にし接することができるあらゆる社会事象・自然現象)を"appreciate"(正しく認識・評価)できる能力さえ持っておれば、おのずから自分が行なうべきことを洞察・発見することができるようになっていきます。これが真理だという自信があれば、それを(たとえ誰もやったことがないことであっても、人が面倒に思うようなことでも)自発的に実行することができます。その実行の過程で、たとえどんなに大きな困難が待ちかまえていたとしても、彼は「自分が行なっていることは真理に通じている」という確信が自信を支えているので、彼の命が続く限り、それを実行し続けることができるのです。

 自分が生きている世界を appreciate する → 自分に求められている行動が見えるようになる → 心の奥底の良心・使命感がくすぐられる → 自発的にその実行ができる(せずにはいられない)…すなわちこれがB−Pの言う「奉仕(Service)」なのでしょう。

 人間は、自分たちが生きている世界を appreciate できる能力を養う必要があります。真理や真実を探求する精神を養う必要があります。

 しかし、既に明らかにされているように、B−Pは、当時の学校教育の、何がなんでも競争を重視する風潮や、その中で育つ少年少女の精神的ひずみの現れに対して、並々ならぬ嘆きを表しています。そのような教育の中では、決してこの世界を appreciate できる能力は育成できません。そんな観点から、彼は、「広くものを見る」ことを学ぶ教育を創始しなければならないと思い至ったのです。

 そこで、私たちが生きている世界を appreciate できる能力を育成する(この世界を自分自身にとって魅力あるものとして捉える態度を育てる)教育システムとしてB−Pが確立させたものが、「進歩制」(バッジシステム badge system )であり、さらに、自分が行ないたいと思いついたことについて、自分の責任のもとに実際に行なう力を養わせてくれる、またサポートしあうシステムが、「班制」(パトロールシステム Patrol System )であるわけです。

 B−P自身、当時の社会の問題ある状態を appreciate する中で、少年少女を正しい道に導く教育を開始しなければならないという意識にかられたからこそ、高齢でありながらも、職業上の地位を捨ててまでも、ボーイスカウト運動を開始することができたのです。彼自身、彼の信念としての「奉仕」( Service )を実践したわけです。

*      *      *


 ところが、人々の中には、B−Pが持っていた現代の社会状況に合わない(反動的と言っている人もいます)思想のために、ボーイスカウト運動を否定的に見る人々がいます。

 B−Pは、忠実なクリスチャンであり、また「パックス・ブリタニカ」(イギリスの支配による全世界の平和)の風潮の中で、しかも職業軍人として生きてきたものであり、B−Pが認識できる範囲やその許容量は、どうしても限界がありました。そのために、B−Pが宗教的に信じていた"virtues"(キリスト教の「徳」)の思想や、国家に対する忠誠の思想が、ボーイスカウトの「ちかい」や「おきて」に反映することになったのです。しかし、これはB−P自身に原因があるのではありません。当時の社会状況がそのような考え方を強要したのです。

 B−Pは、このボーイスカウト運動を始める時、「 Scouting for Boys 」を著しています。これには、B−Pの野外での生活体験や、思想が如実に表されています。ところが、彼は、それの初版を出してから、亡くなるまでの33年の間に、実に20回近くも修正の筆を入れているのです。改訂されるごとに、先には彼の思想の中心的位置をしめることさえも書き改めているところが少なくありません。世界の情勢の変化とともに、ボーイスカウト運動の国際化とともに、彼自身、「パックス・ブリタニカ」が誤りであることに気付いたのでしょう。これは、B−P自らが、この世界を絶えず正しく認識しようとする努力を惜しまなかったことを示しています。

 B−Pの、この熱心な、世界を appreciate しようとする態度は、もし彼が現在も生きていたならば、自分が作った「ちかい」や「おきて」を、もしこれが現状にそぐわないと判断できれば、それをも修正してしまうことに躊躇はしないであろうと思います。

 (1) 竹内真一著『青年運動の歴史と理論』(1976年)、199ページ
 (2) ガール・スカウト日本連盟著『B−Pのことば』(1977年)、57ページ (ROVERING TO SUCCESS から)

  1979.11.29




「進歩制」( badge system )について

 私は、「月の輪組集会」(スカウトがカブ隊からボーイ隊にあがる時期の一定期間、この組に入って訓練を受けます。小学5年生の3学期の時期に当たります。)の第1回目の集会の時に、その子どもの親もいっしょに来ていただいて、次のような説明を行なっています。



 ボーイスカウトの「進歩制」は、夏休みや冬休みの時、子どもが学校からもらってくる「学習日誌」とよく似ています。

 「学習日誌」には、その日その日に行なう課題(問題)が書いてあります。課題だけが書いてあります。その学習の方法やヒント、またそれらを解くための学習会等は、一切用意されていません。子どもたちは、自分だけで、それらの課題のすべてを、休み期間の内に、家庭の中で解いていかなければなりません。休みが終わった時は、その「学習日誌」を、100点満点になる形に仕上げての答案として、学校に提出しなければなりません。「学習日誌」は、日々のテストではありません。

 子どもたちは、自分で「学習日誌」の課題を解いていかなければなりません。しかし、そのやり方は特に決まっているわけではなく、きわめて多くの方法があるわけです。その方法のいくつかをあげてみましょう。(1) 自分が知っている知識を書く…しかし、これはたまたまその課題の答となる知識を自分が知っていたときだけです。では、その答を知らないときは…(2) 「教科書」「百科事典」「学習図鑑」「専門書」等、家にある本のすべての中から、その課題の答を見つけるよう努力するでしょう。(3) 「お父さん、教えてー」と要求するかも知れません。(4) 「図書館」に行って、調べるという方法もあるでしょう。(5) 自分で実験、観察する、という方法を見つけ出すかも知れません。

 ボーイスカウトの「進歩制」も、この原理と同じです。スカウトは皆、「ボーイスカウト進歩記録帳」というものを持っています。この中には、いろいろな課題が、びっしりと書かれています。子どもたちは、この課題を、中学校を卒業するまでの4年間に、「級」や「章」を目指して、取り組むことになります。隊は、この課題を解くための講習会等は、特に行ないません。それぞれを、自分たちだけで、家庭の中で行なわなければならないのです。

 そこで、二つほど、お父さん方にお願いがあります。

 この「進歩記録帳」に書かれている課題を行なうことについて、子どもたちに対して、何の強要も拘束もありません。このことは、ほかっておけば、子どもは何もしないまま、4年間を過ごしてしまうということになりかねません。そこでお父さん方にお願いします。「進歩制」は、確かに連盟による教育プログラムの内にあるものですが、家庭においては、この「進歩記録帳」の課題は、お父さん方による、自分の子どもに対する課題であるという建て前で、子どもにやらせていただきたいのです。課題を行なわせるという観点で、いろいろな形で、そんな場を設定してやっていただきたいのです。例えば、「君がキャンピング章を取ったら、うちの家でも家族キャンプをやろう」とか、「わが家は商売をしているから、珠算章を取ってくれるとありがたいのだが」とか…。その他、いろいろなアイデアが浮かぶと思います。

 それから、ボーイスカウトの「進歩制」の中の諸課題は、子どもたちにとっては、興味を持ちやすいものではありますが、その内容はかなり専門的なものですから、子どもたちが、「これの答が見つからない」という壁にぶつかることがあります。それがために、子どもがその課題を解くことを断念してしまうことがあります。カブの時と違って、お父さん方に答えられるものは少ないでしょう。そこでお願いします。家庭の中に、連盟の出版物や、図鑑、事典等、自己学習に役立つ教材(これらを「学習資源」と呼ぶことにしましょう)を、できるだけ豊かにそろえていただきたいのです。

 「進歩制」は、ただその課題を行なえば、それですべてが終わりというものではありません。ボーイスカウト時代に(自分に興味ある)課題を自分の周りの学習資源を用いて解いたという経験が、彼が成長し、何らかの問題にぶつかったとき(例えば進学問題、就職問題にしても)自分でそれを問題解決できる能力として生きてくると思いますし、さらに、自分で問題を設定してそれを解くという能力(創造力、企画力、計画力、決断力等)にまで発展させることができると信じております。

 ボーイスカウトの「進歩制」は、「家庭教育」形成のための一つの方法であるということができるでしょう。

  1979.2.26



 ボーイスカウトの「進歩制」について、少し説明させていただきます。

 よく、「ボーイスカウトにはテストがある」という話を聞きますが、これは間違った認識です。あと一年もすると、ご子弟は、中学校に進学され、各学期の中間テストや期末テスト等に悩まされることになるかと思いますが、これらのテストとは、まったく違います。

 確かに「進歩記録帳」には問題(私たちは「課目」と言っています)がびっしりと書いてあります。しかし、そこには、ボーイ(中学生クラス)で最高の「菊」級になれるまでの問題が書いてあります。つまり、中学校3年生の3学期の期末テストの問題までもが既にわかっているようなものです。もちろん、今のあなたのご子弟に、そんなテストをやらせても、とても解けるはずはありません。でも、私たちは、「どんな知識を持っているか」ということは、少しも問いません。私たちが問うのは、「これを解くためにどんな努力をしたか」ということです。その問題の解答を作り出すために、どれだけのことを行なったか、ということを評価するのです。解答さえできれば、それ相応の「級」や「章」を、名誉として、努力したその子に授けられます。今でも「菊」級課目の解答を(今は知識がなくても)努力して作れば、「菊」章を手渡す準備をしております(実際は一定の期間が必要ですが)。

 でも、私たちは、その解答は、いわゆる全問正解といえる条件を満たすものでなければ受け付けません。学校のテストのように、「何点取ったら合格」という考え方はしません。解答を作るときは、本を写しても構いません。親に聞いても構いません。図書館で調べても、先輩に教えてもらったものでも構いません。しかし、解いた本人自身が、これで100点満点だ、と自信のある解答を作っていただきたいのです。

  1984.2.15



 以上の考え方が、本当にB−Pや日本連盟が示している考え方か、といわれると、疑問なところもありますが、私が、このような考え方を構築する上で、影響を与えられた文章を紹介します。
 
 われわれは、わが国に存在しているそう多くないものを利用することを学ぶ必要がある。利用しようではないか!……農村に入った新聞のどの号も、どの図書も徹底的に利用しよう。文字を知っているものはだれでも、それ以上に能力のある人間はだれでも徹底的に利用しよう。
 私はペスタロッチのことを思いだす。かれはスイスがまだ貧乏で、比較的に文化の遅れた国であった時代に生きていた。それゆえ、みなさんにかれの作品のなかに、暗い農村のなかでいかに利用すべきかということにたいする多くの教訓を見出すであろう。かれは子どもたちに、すぐれた品種のキャベツを栽培できる農村のところに学びにいきなさい、時計屋さんのところへ学びにいきなさい、行商にくわしくたずねなさいと教えた。技能を習得するためにそれぞれの人を利用することを教えたのである。
 現代の文化生活は学ぶ機会をはるかに豊かにしている。しかし、もっとも文化的な国の現在の実践でさえ、たとえばボーイ・スカウトに、ペスタロッチが子どもたちに教えようと望んだもの、すなわち、周囲の生活を利用すること、知識を習得するために技能のある人々を利用することを教えているのである。ボーイ・スカウトはバッジにたとえば家畜などを選んでいる。子どもにはつぎのような技能課題があたえられる。すなわち、彼は、乳牛の世話をし、搾乳をし、バターとチーズをつくり、牛乳の殺菌をすることを学ばなければならない、乳製品の保存法を知り、酪農のさまざまな用具を教えなければならないのである。目的がたてられる。ただそれだけである。しかし、いかなる講習会、学校も開設されていない。ボーイ・スカウトは、それらのすべてをいかに学ぶべきかという方法を自分自身で見出さなければならない。こういうやり方のなかに、周囲のものを利用する創意、自主的活動性を強く刺激するものがあるのである。どのように学ぶかを探し求めよ。
 ペスタロッチのもとで、ボーイ・スカウトのもとで、われわれは周囲の生活にたいするまったく正しい態度を学び、周囲の環境から必要な知識と技能を手に入れることを学ばなければならない。

 (エヌ・カ・クルプスカヤ著「児童サークル活動について」〔1926年〕『クルプスカヤ選集−2、校外活動と集団主義』、笹島勇治・村山士朗訳、1969年、17ページ)


 ボーイ・スカウト運動は、少年少女になにをあたえるのか? まず第一にそれは、かれの積極性を育む食物をあたえ、かれが独自に達成するところの、しだいに複雑化していく一連の目的を提起する。具体的で、じゅうぶん明白で、一定の努力によって達成しうるものであり、しだいに難しく、遠くなっていく目的、こういう目的の提示はひじょうに大きな心理学的意義を持っている。
 (エヌ・カ・クルプスカヤ著「ロシヤ共産青年同盟とボーイ・スカウト運動」〔1922年〕、前掲書、133ページ)




 総じて言えることと思いますが、ボーイスカウトのプログラムは、身近にあるものを工夫しての遊び、いろいろな趣味、生活の中の課業、各種の専門家や大人が職業として行なうこと、そして人々を手伝ったり援けたりする活動などを、ゲームとして取り組み、体験することです。そして、これらの場を大人が準備し、その上でそれらを体験することを課題化し、またそれらの個々の要素を学ぶことを課目化し、その子自身を基準にしてその頑張った量を評価し、級や章という目に見える勲章で称賛するという取り組みがボーイスカウトの進歩制度といえるでしょう。これらの体験は、子どもにあこがれを抱かせることにとても役立ちます。

 すなわち、(1)自分ができることへのあこがれ、自分でできることへのあこがれ ―― 子どもたちが興味を引くようないろいろな事柄が、課題として、また選択肢として、課目に並んでいます。その中から、自分の興味や関心に合致すること、一度はやってみたいと思うこと、また是非できるようになってもらいたいこと等の観点で、それらのチャレンジを勧められます。そしてそれらが、自分の力で、また大人や仲間の励ましやサポートを得て、できた。できるようになった。そしてそれが評価され、皆に称賛された。このような体験、快感が、次には、実生活の中のことで、やってみたい、できるようになりたいという欲求へと発展していきます。同時に、それをするチャンスを与えてほしいという欲求にも発展していきます。それは更に、そのチャンスを自分で開拓する力、自らものごとにチャレンジする力へと発展していくことになるでしょう。

 (2)大人に対するあこがれ、大人になることへのあこがれ ―― ボーイスカウトには、自分が望んだとき、また困ったとき、サポートしてくれる善意の大人が周りにいます。その大人集団には、自分の親も加わります。そんな大人のサポートによって問題解決できたという体験が、また大人の配慮や計らいがあって自分はいろいろな楽しい体験ができたという思いが、大人への感謝と尊敬の気持ちを芽生えさせることになります。更に自分の将来のこととして、そのような大人(その知識や技能を持った大人であり、人をサポートできる大人)になりたいという欲求、なるんだという決意に発展していくことでしょう。

 (3)習うことへのあこがれ、学ぶことへのあこがれ ―― 一つひとつの課目の挑戦と達成をとおして、まねをする・教えを請う・調べる・検証する等の様々な学ぶ手法を獲得していきます。そのうちの調べるということについては、人に尋ねる、から出発し、書籍、百科事典、新聞、テレビ、図書館等の活用、更には社会や自然の中から知識や知恵を引き出す方法に気付き、その習慣が確立していきます。人の学ぶ場が、学校だけではなく、学校とは違う学習の場や方法があるということを知った愉快さは、生活の中で気になることや疑問に思うことに出会うたびに、知りたい、調べたいという欲求に転化し、それはわくわくという気持ちを生み出します。このわくわくという気持ちが持つエネルギーは、積極的な行動を促し、人生に豊かさを与えてくれることでしょう。




 ちなみに、日本のボーイスカウトに定められている「進歩制」における「章」(「特修章」と「技能章」が設けられています。このほかに「級」という制度も設けられています。)は次のとおりです。それぞれに定められた「課目」を修了することによって、その「章」のバッジが与えられ、自分の制服につけることができるわけです。

 公民章、世界友情章、救護章、健康章、安全章、水泳章、観察章、計測章、通信章、結索章、野外料理章、読図章、ハイキング章、キャンピング章、自然愛護章、デンチーフ章、近隣奉仕章(以上特修章)
 野営章、野営管理章、救急章、看護章、環境衛生章、炊事章、水泳章、漕艇章、消防章、案内章、沿岸観察章、自転車章、スキー章、馬車章、園芸章、写真章、音楽章、安全章、絵画章、信号章、測候章、天文章、珠算章、裁縫章、洗濯章、家庭修理章、森林愛護章、鳥類保護章、木工章、竹細工章、電気章、ラジオ章、無線通信章、有線通信章、事務章、測量章、剣道章、柔道章、英語通訳章、世界友情章、自動車章、溺者救助章、演劇章、相撲章、土壌章、農機具章、農業経営章、養鶏章、搾乳章、養豚章、わら工章、スケート章、拳法章、空手道章、登山章、カヌー章、ヨット章、アーチェリー章、オリエンテーリング章、釣り章、弓道章、エネルギー章、簿記章、茶道章、書道章、コンピューター章、文化財保護章、伝統芸能章、手話章(以上技能章)
 (財団法人ボーイスカウト日本連盟「日本連盟規定集」〔昭和61年版〕から)



     「財団法人ボーイスカウト日本連盟教育規定」(抄)

目  的  1  財団法人ボーイスカウト日本連盟は,ボーイスカウトの組織
       を通じ,青少年がその自発活動により,自らの健康を築き,社会
       に奉仕できる能力と人生に役立つ技能を体得し,かつ,誠実,勇
       気,自信及び国際愛と人道主義をは握し,実践できるよう教育す
       ることをもって目的とする。

             ボーイスカウト隊(ボーイ隊)
標準組織 458 ボーイ隊は,班長及び次長を含み,8名よりなる班,4個を
       もって組織することを標準とし,少なくとも,6名以上よりなる
       班,2個を有しなければならない。
上級班長 460 隊長は,必要に応じ,班長会議にはかった上,上級班長をお
−任命・   く。上級班長は,18才以下で指導力を有する1級以上のスカウ
 資格    トであることが必要であり,班長,次長として通算6か月以上奉
       仕した経験を有することが望ましい。
−任 務 461 上級班長は,隊長の指導の下に,隊活動の中心となり,また
       班長会議の座長となる。
班  長 465 班長は,班員によって選ばれ,班長会議にはかった上,隊長
−任 命   が任命する。
−任 務 466 班長は,次長の協力と班長会議及び隊長の助言によって,班
       の集会,ハイク,キャンプ等の活動を計画し,隊及び班活動を通
       じてその班員を指導する。
次  長 467 次長は,隊長及び班長会議の承認を経て,班長が選任する。
       次長は,班長を助け,班長不在の場合,その代理をする。
班長会議 469 班長会議は,班長,上級班長及び隊付をもって構成し,上級
       班長が,その座長となる。上級班長は,必要に応じて,次長を出
       席させることがでさる。上級班長が欠員,または不在の場合は,
       先任班長が,これに代る。
        成人指導者は,助言者としてこの会議に出席する。
     470 班長会議は,班長教育の一方法であると同時に,隊の名誉を
       保つこと,隊員の進歩に関すること,隊活動のプログラムを立案
       準備すること,隊内運営に関することについて責任を有する。
班会議  471 班の運営はすべて班会議において,合議決定することを奨励
       する。
     (2)  班会議は定例及び随時に開かれ,班長が座長となる。
     (3)  班長は班会議の決定事項を隊長に報告する。

(財団法人ボーイスカウト日本連盟「日本連盟規定集」〔昭和53年版〕から)
 (以上の各条文は、時を追って、細かなところで改正されています。現在適用されているものとは、若干の違いがあります。)


 [ 1997. 1. 5 登載] 

 差し支えなければ、感想、ご意見等をお送りください。
メールフォームのページへ

ボーイスカウト研究(1979.12.14) BS01 
 このホームページは個人が開設しております。 開設者自己紹介